Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

「時間は存在しない」3周目から、近傍について考える

カルロ・ロヴェッリ「時間は存在しない」をこれでもう3回通しで読みました。
さすがに3回目ともなると、「その話知ってる」と、こちらは少々生意気になって来るんですが、何で知ってるかと言うと、カルロ・ロヴェッリの言うことをさんざん読んでやっと記憶に定着してきたからであって、当たり前ですがカルロ・ロヴェッリさんのおかげで知ったことです。

で、ちょっと、応用して考えることができるかな~と思って、後になってから、何かアリストテレスについて書いてる部分があったよな~と思って、その部分だけ4回目ということになると思うけど、アリストテレスについて書いてる部分だけ更に少しだけ読み返しました。
そこで、気が付いたことですが、これが「近傍かな?」と思う記述がありましたね。
しかしながらニュートン的な時間だったり、絶対空間とは言うものの、実質的には、一体いつ宇宙が始まったかも正確にはわかっていないのだろうから、まだ何もわかっていないに等しくて時間も空間も計測不可能なことには変わりなく、現在の計測法は、人間が生活して行くのに十分なだけの計測法でしかないし、科学技術も実はあやふやな土台の上に立っているようだと思った。
時間の方が比較的、人間の生活や科学技術の発展に問題無い形で計測可能だけど、空間についてはこれは問題だと思った。そしてその部分こそが「近傍」なのではないかと思った。

つまり、「今何時?」と聞かれて、例えば(日本時間で)「何時何分」と答えることはできる。比較的計測可能で、人間は、それに従って生きていられる。
ところが空間に関しては、「今どこにいるの?」の聞かれて、「座標マーク××××××」とSF映画やSFドラマに出てくるように空間座標を数値を用いて相手に返事をしている人など1人たりともいないということ。ここが問題のポイントなんだと思うし、これが近傍の概念を表している。
カルロ・ロヴェッリさんが言うには、「今どこにいるの?」に対する返事は、いつも、自分を取り囲んでいるものを答えている、ということで、それは本当にその通り。

「今どこにいるの?」と電話がかかってきたりして聞かれたら、例えば今自分が不忍池周辺にいるとしたら、「今、不忍池の周りを歩いてる。もう少しで弁天様。そこの階段を上がって上野公園の方に入る。」などと答える。常に自分の外側、自分を取り囲むものの環境の名称を答える。これが近傍なのではないか、ということを思いました。
決して、人間は、日常生活においては空間座標を使って会話などしない。空間座標なんてSFで宇宙船の目的地や停泊地、ワープ地点を指し示す時しか耳にすることは無いし、現実世界であるとしたら数学の世界で使用するくらいでは?現実生活においては、常に、身の回りの環境や自分自身を取り巻くものの名称を答える。きっとこれが近傍なのではないかと思ったし、きっとこれは古代からずっと相も変わらず続いていることで古代から生活空間における空間把握については人類はほとんど進歩をしていない。
時間に関しては数えることができるという性質を持っているために、せいぜい「時計」が出現しただけのことであって、空間把握の不確かさから察するに「時計」すら実は信用に足る物とは限らないものなのかもしれない。しかも「時計」はただの共通認識のための時間に過ぎず、それすら絶対時間とも純粋な時間とも言い切れず、重力でゆがんで伸び縮みしたと思ったら、それだけでは済まずに粒子だったのでぼやけていて、相互関係の中でぼやけがぼんやりしていなくなり時間の流れらしきものを1人1人の人間が感覚・知覚する。それはエントロピーと関わりがあり、わかっているのはそこまで。本当にひどい話。

ここで、先程の近傍に戻って、そのような場をトポスと言うとしたら、トポス→トピカは古典ギリシャ語、そして英語のトピックスとなるので、ギリシャ語トポスは英語トピックスの語源。とすると、トピックスは題目、主題、はたまた東証株価指数となりますが、トピックスに出来事という意味もあるとすると、場は出来事で満たされることとなり、近傍とつながることになろうかと思います。
間違えてるかもしれませんが、私も実はよくわからないただの四方山話につき、本日はここでお開きです。

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