Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

ヘラクレイトス再考

西洋哲学ではある同一のものについて肯定と否定の同時並置はしてはいけません、ということになっているわけなのだけれども、それを平気で言ってしまったのがヘラクレイトスということになってしまいます。
しかしそれは、時間の流れ、『時間内部性』の介入によって現象としては可能であると言って、現代の現象学においては許容されるものとひょっとしたらなるのかもしれません。しかしながら論理学では相変わらずNGと思います。
少々、例えがグロテスクかもしれないけれども、それは犬である、と言いながら同時に、それは犬でない、と言ったとする。普通なら矛盾しますが、もしそれを時間経過を考慮に入れるならば、子犬から成犬になり年老い、亡くなり土へと返る。最後、土になってしまったことまで含めると、犬であると同時に犬ではないとも言える。ただし時間経過を考慮に入れなければならず、これを現象学的に『時間内部性』における出来事であると称して上手く説明することができるならば、何らかの適した言い様があるのかもしれない。生成消滅と言ってしまうと、アリストテレス風な解釈になってしまい、エネルギーやら運動やら、そうした強く何かを発散しなければならないようなまた別の話も入って来てしまうような気がする。ヘラクレイトスにおける生成消滅は、あくまで転化であって、何か静かに次の物にエレメントの交換を経て移行していくようなイメージのように今の所思えます。そしてその転化はロゴスが支配するものであって、このギリシャの草創期のロゴスというのは一大テーマであって、これを言い始めると更に収拾がつかなくなりそうです。このロゴスについての種明かしは、人間の理性の介在が必要なもののようであり、現象学的には、人前に集めてくること、集める、という概念が前提であるとされています。

一方、上記の事柄と『非ず非ず』とは、どうやら同一のものでは無さそうで、非ず非ずは基本、否定のみ並置されているのだと思うので、こちらの場合は、時間を排除して考えるべきもののように今の所思えますし、もっとパラパラパラッ、パタパタパタッと、無限にドミノが倒れて行くかのようにして空間が展開して行くイメージがありますので、少々性質が違うものなのだろうな、という感じがしています。‪以前書いた『非ず非ず』に言及したブログ記事は、現在見れなくしてますが、そこには『非ず非ず』は西洋哲学的に換言すると、事実存在の並列であるということと、直観的には彼岸的世界のほのめかし、という風に私は書いてると思います。

西洋哲学においては、後の時代になればなるほど、文献がいかめしく、定義把握をきちんとしながら読むなどが必要ですが、ヘラクレイトスをはじめとする草創期ギリシャ哲学は、字面だけなら子供でも読める平易さなので、哲学とは何なのか不明という方々には実は読み易い部類なのかもしれないと、思いました。その点では大人の方々にはお勧めできますが、青少年には絶対勧められませんね。こんなことに時間を費やしていると良くありませんので、青少年は普通に義務教育の試験勉強をきちんとすべきで現代の科学を習得した方がずっと有益で、社会に貢献できるはず。実際の所、数物その他理系科目で学ぶ自然科学とは、ロゴスの一部としての構築物に違いありません。・・・などど真面目腐ったことを思ったのも束の間、人類は科学を手にしたところで原発事故は起こすし、コロナだの、適切に知識を運用できないのが常だとしたら本末転倒で、結局のところ、答えの出にくい哲学的問いを反芻して時間を無駄にしていた方が危険回避行動となり、人類の持続的繁栄には適していると言えるのかもしれない!?

考えていると日常生活に支障を来たすヘラクレイトス - Qu'en pensez-vous?

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