Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

新しい近傍とは

急激な変化に適応する(3)建築理論編 - Qu'en pensez-vous?

↑前回のブログを書いた後、以下の、建築家の原広司さん著の書籍を再読して考えてみていました。↓

『ディスクリート・シティ』 原広司 - Qu'en pensez-vous?

『DISCRETE CITY Vol.1 ESSAY
離散性について―連結可能性と分離可能性をめぐる小論』
TOTO出版

こちら、2004年の出版です。昔読んだ時よりも、自分の頭の性能が落ちているように感じ、以前の方がより想像力も豊かに広がり感動もしたはずだったと自分では思うのだけれど、今回はほぼ字面を追い内容を理解する程度に終わってしまいました。
以前のブログ記事↓

『ディスクリート・シティ』 原広司 - Qu'en pensez-vous?

では、DISCRETE CITY Vol.2のINTERVIEW冊子の方の『註』に着目して書いていましたので、今回はVol.1のESSAYについて要点と思われる箇所をメモ書き程度に記すに留めます。

原広司さんが「住居に都市を埋蔵する」と説明したその都市とは、「ディスクリート・シティ」のことであった、といった内容が序文にあります。
そして、これは建築雑誌などいろんな機会に良く語られていることなので広く知られているはずですが、

2建築はものではなく出来事である

ということも再度述べられています。

本文の対談の方でも、空間の文法に関するところで、「屋根・壁・天井で話す建築ではない建築の理論というものにつながる」というお話もあります。

『ディスクリート・シティ』 原広司 - Qu'en pensez-vous?

(当ブログでは一応、環境内行動というカテゴリーを作ってあるんですが、一体人間は、ある一定空間の中でどのような行動をして過ごしているのだろうか、ということが客観的にわかるように一応そのようにカテゴリー分けしてあるんですが、その行動や出来事についてのピントが外れているように思われるし、一体それが何か考察に役立つかと言ったら今の所不明ですし考察量も足りません。「ディスクリート・シティ」で語られるところの、出来事とか人間の行動とは、ドアや窓に象徴される行動が重要とされているので、恐らく当ブログの環境内行動カテゴリにおける行動はピントが外れています。つまり出来事とは、「ディスクリート・シティ」表題にもありますように、『連結可能性と分離可能性』というところが重要な部分であって、空間に孔を穿つ行為全般に関わる人間の建築的行為のことを指していると思われます。何かを打ち破って外に出る、というのが行動や出来事の意味で、何らかの境界の外側にある空間とつながる、今いる空間を破って続きの空間を垣間見るというのが重要なことなのではないかと思います。環境内行動というのは、少しも空間に孔は開いていなく同一の内部空間に留まった状態のことです。そのような意味で当ブログの環境内行動というのはまったく持ってピントが外れていて、『建築的出来事』とは全くの別物ということになります。)

13コラージュの美学―デペイズマン
の所に書かれてあることは、多分、記号場の手法と共通点があると思いながら読みました。記号場については、以前のブログに『註』についてピックアップしているのでそこからおおよそわかると思います。↓

註5の、「ある場を取り出すとき、それを一度記号化する作業が必要である」のあたり。「出来事の中にものの論理が残ってしまうのは問題」のあたり。「場を出来事として示すために、それをアトラクターと呼び記号化する、このとき取り出されたものが記号場」と書いてある! この註5、非常にわかりやすいです。

『ディスクリート・シティ』 原広司 - Qu'en pensez-vous?

記号場についても、もの、物体的な意味が残ってはいけないので出来事のみを抽出するのだったはずですが、デペイズマンも、モチーフにまとわりつく「慣れた近傍」との関係からの分離を要するという点で非常によく似ています。あるものとは、そのままではいろんな関連事物が付随して近傍丸ごとくっついてきてしまうのだが、そういうことがないように、ものを、馴染みの周辺事物から分離して、「国籍が剥奪された状態」の何らかのものを取り出す。こうした「慣れた近傍」からの分離、が重要な手続きとしてあるようです。

24人々の離合集散について―さまざまな部分集合の成立
ディスクリートという訳語から想像されがちな誤解としてバラバラになるということがあるが、そうではなく、離散性とは人々が良好に「離合集散する」状態を指し示している、ということが記されています。

(1つ前のブログに、現在の状況を予知していたようだ、と書きました。↓

急激な変化に適応する(3)建築理論編 - Qu'en pensez-vous?

現状では、離れて立っているというところまでは同じようであるかに見えるけれども、人々が良好に離合集散しているかどうかについては、今のところそうなっていないように見えますが、もし今の状態から良好な離合集散ができる状態になると、ディスクリート・シティがいよいよ現実のものとなるのかもしれません。)

28通常の距離空間と離散距離空間との差異
位相空間の代表的位相として、密着位相、順序位相、通常の距離位相、離散位相とくる筈、と述べられ、「離散的な点」の近傍における距離空間がどうなっているのかが考察されています。先程の13コラージュの美学―デペイズマンで述べられたことの繰り返しのようでもあるのだけれど、再びそのことが「数学的な点」として説明され、点についての分離条件の差異が、通常の距離空間と離散空間との差異であるとされています。そしてこれによって、建築空間論の話題の中で頻繁に登場する概念となった「近傍」が一体何であるのかが明らかになるのだと思いますし、29、最終章30へと、近傍に関わる内容へと進んで行きます。

30<ディスクリート・シティ>―新たなる近傍の探求
ディスクリートな社会のイメージは新しい近傍の探求を指し示しているであろう~最終ページ32頁まで述べられています。
近傍について少々これだけではイメージするのに不十分と思い、「集落の教え100」の助けも借りようと思い、↓

「集落の教え100」原広司 著 彰国社 - Qu'en pensez-vous?

とりあえず「集落の教え100」の目次を見て、近傍に相当する項目を探してみますと、[4]離れて立つ、が離散性の説明をしているとしたら、[1]あらゆる部分、というのが近傍に関してヒントになりそうに見えますが、この理解で合っているのかどうかわかりません。「集落の教え100」巻末の補注を見てみますと、225頁16離散位相/離散型集落の所に、最も豊かな「部分」をもつのが離散位相である、との記述がありますので、恐らく、定立された自立した個人はそれ自身がそれぞれあらゆる部分となるということになるのだと思いますが、それらあらゆる部分の一つ一つもあらゆる部分を近傍にとる、というふうに理解をしてしまってもいいのかどうか、というところが疑問点でわかりません。22離散位相の最後の所に、離散距離空間ではメンバー間の距離はすべて等しい(1である)とされる、と書いてありますので、一見良さそうに思えますが、11離れた領域からなる近傍、ということも重要な事項でもあると思うので、それをどう考えるのか、どう表記するのか、という問いも含め不明です。

クラスターを形成せず、最も豊かな部分を持つのが離散位相で、社会の在り方としては理想像である、といった内容もあります。

急激な変化に適応する(3)建築理論編 - Qu'en pensez-vous?

そして最後には、話はまた最初に戻って行くんですが、(通常の距離空間的に)共有される近傍に直面しながらの新しい近傍の探求において、連結可能性と分離可能性について建築的実体(もの)ではなく出来事が問題になってくるのでそれについての提案が大切であるというような話に立ち返って終了する形となっています。

このような流れで、これは理論であってイメージだけなら確かに良く理解できるのだけれど、それが実際に目に見えるものとしてどういうものであるか実際に示さなければならない段階に突然来た、ということなのだと思います、きっと。これは大変なことになりました、としか言いようがありませんが、現実がディスクリート・シティの構想に近付いているのは確からしいので、やはりそれは大きな功績だろうなあと感嘆しています。

理解が間違えている所、まだよく理解していない部分や見落としている所があるかもしれませんので予めご了承下さい。

急激な変化に適応する(3)建築理論編 - Qu'en pensez-vous?

『ディスクリート・シティ』 原広司 - Qu'en pensez-vous?

「集落の教え100」原広司 著 彰国社 - Qu'en pensez-vous?

「YET」 HIROSHI HARA から原広司さんの建築理論の普遍性について考える - Qu'en pensez-vous?

HIROSHI HARA:WALLPAPERS の補論2「情景図式と記号場」後半部分を再読してみました - Qu'en pensez-vous?