Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

デカルト的視点で「非ず非ず」を考えてみる

当ブログにおいて、息長くアクセスされる記事として挙げられるものの1つに以下の記事があるようです。↓

「非ず非ず」を西洋の言い方に置換してみると? - Qu'en pensez-vous?

「非ず非ず」について、前回とはまた少し別の視点から考えてみたいと思います。前回のブログはデカルトの哲学を下敷きにして論じていました。その時も薄々今回書いてみようとしていることは頭にありましたが、それ以上問題を複雑化しないために、前回はそこまでの内容で話を止めておきました。今回は無謀にも更に踏み込んで書いてみます。

そもそも「非ず非ず」とは何かというと、否定の形式による空間生成装置という建築家原広司さんによる提案であって、場を誘起する力を持つファンタスティックな空間理論となっています。西洋哲学の弁証法が境界と容器性を伴うのに対して、非ず非ずは境界づけられない場を生み出すとされます。ΓΓAの操作により突如その地点の地中から湧き水が噴出するかのように豊かな場が成るイメージです。大変興味深く、面白く、他では聞いたことが無い理論で、建築家原広司さんの著書「空間<機能から様相へ>」最終章「<非ず非ず>と日本の空間的伝統」に詳しく書かれています。

定家の歌と英語の詩が例として出てきて、前回は定家の歌の方から論じましたが、今回は英語の詩の方から先に始めたいと思います。

前回、説明に苦慮した英語の詩を考えます。

1つずつ全てに否定が付いています。実は西洋哲学においては、こうした否定の形式は本来は歓迎されないものらしいのですが(デカルトが専門の先生からこの件でなく別件の日本的否定表現に対する見解としてそのように聞いた。専門家がそうした否定の形式を知っているということは、19世紀~20世紀初頭~戦前の日本の思想界では、否定の形式が流行していたのではないか、とちらっと思いました。)、デカルト専門の先生の忠告を今回は無視することにします。

この詩の否定の重複ですが、これは一見否定に見えているだけで、実際には「制限的用法」に相当するものではないかという疑念が生じて来ます。

notをどのように訳すかだと思うのですが、

~でもなく、~でもない
と「空間<機能から様相へ>」中の訳ではなっています。

~である
~でない
~ではない
こうして3パターン並べて考えてみたいと思います。

とすると、この詩は、上記3パターンの3つ目の「~ではない」という表現は、カントのカテゴリー表にも分類として出て来る「制限性」に相当しているように思えてきますがどうでしょうか。「制限性」が果たして文法上の「制限的用法」と結びつくものなのかどうか、私にはまったくわかりません。「わからないのに書くな!」と怒られそうですが、これは大真面目な論文でも何でもなく、ただのブログのお遊戯なので、自由に書いて思考を巡らせてみるのもありかなと思ってます。

~でない、~でない、ではまるでオオカミ少年です。
~ではない、~ではない、と考えると、ただの否定というよりも何か別のものを示唆している可能性が出てきます。

非ず非ずは、意味的にはnotよりもexceptの方がその意味内容を的確に示せるのではないのだろうか、と突然思いました。
not
except

「非」という字も、きっとそれ以外のところのものを指し示そうとしているのではないかと思えます。
ただし、notという否定によって、主体が元あった場所へと戻る(アリストテレスのトポス)という操作が重要事項であるらしいので、notをexceptの意味で捉えてしまうとトポスの原理が消えてしまいますので、結局のところexceptで捉えるのは不可となります。ただ、理解としてはexceptの意味でnotを捉えるとよりわかり易いのではないかというふうには思います。

更に、前回のブログ記事では、この詩は本質存在essentiaについての記述であると書きました。
本質存在essentiaについてですが、この詩の本質存在の一覧のそれぞれの状態とは、果たしてどういった性質を持っているでしょうか。
全て主語に対する定義になっていますが、これらのものはすべて観念上の存在であり、実際に触れたりはできないものです。デカルト的な言葉遣いをするなら、思念上の存在は外延量を伴いません。そもそも頭の中の思念は、延長空間に出て行くものではありません。実際に見て触ることのできないもの、思念上にある存在in intellectu。これを何と呼ぶかは、西洋哲学で説明するとしたら、各哲学者によってその呼称は微妙に異なると思われますが、デカルトの用語を使用するとしたらrealitas objectivaに相当するのではないでしょうか。repraesentatioでも間違いではないかもしれませんが自信がありません。プラトンにおいてイデアと呼ばれた想像上の存在はむしろ純粋形態を伴い天上から燦然と輝きを放つようなものでしたが、デカルトにおいてはよりパーソナルに万人に共通する現象として輝く知性が地上に降臨した感があり、デカルトの三項契機の第三項目にはいわゆる様相modus/modiも登場してきています。

次に定家の歌。

見渡せば花も紅葉もなかりけり

花がない
紅葉がない

花がある
紅葉がある

この場合の花や紅葉は存在としてどのような状態にあると考えられるでしょうか。
前回は、事実存在existentiaとして説明しましたが、上記の本質存在essentiaの時と同様にデカルト的思念上の問題を挿入して行きたいと思います。

花がない
紅葉がない

花がある
紅葉がある

今回の議論では、否定の表現でも肯定の表現でもどちらでも良しとすることにします。

というのは、定家のこの歌では、もはや眼前に花も紅葉も無いことは決定しているため、花と紅葉は実際に目に見えて触れられる状態では存在していません(実在していない)。
しかしながら、頭の中には対象の不在にも関わらず「花」と「紅葉」が想像され、目の前にその二つが投影されている状態にあります。
この状態を何と呼ぶか。事実存在の非実在様相でもあり、思念上でも存在している。
今回はこの件について非常に厄介に感じています。
事実存在の否定というだけなら単純なのですがextra intellectum、どうやらそれは本質存在同様に思念上にも同様にして在るin intellectum。このことを何と表現すれば良いのか。つまり、頭の中に事象が存在しているだけならよいのですが、実際には、目の前の光景の中に、幻影のように対象が事実存在しているかのように我々は錯覚する。この点が非常に厄介だと感じています。この状態を表示できる用語が西洋哲学の中に果たしてあるのだろうか。・・・それはrealitas actualis?
否定された事実存在だけならdistinctio modiされたsubstantiaと言えばいいだけかもしれないし、resで事足りるかもしれない。しかし、思念上に堂々と侵食して来た(介入して来た)事実存在は、本質存在の所で既に出てきているrealitas objectivaと同一視してしまってよいものであるはずはなく、おそらくこの場合realitas actualisが対応するデカルト用語なのではないかと現時点では思われます。

だんだんわからなくなってきたので基本に戻るとして、存在と一口に言っても、本質存在essentia、事実存在existentiaというふうに、存在には2種類あるのだということを前回書きましたし、このことはデカルトによっても指摘されています。
よく日本には哲学の土壌が無いと言われますが、実は日本語は、古語の時代から現代日本語に至るまでずっと、このessentiaとexistentiaの区別が付いている超優秀な言語体系であったがために哲学が確立される必要が無かった、と考える研究者もいます。西洋の言語体系に不備があることによって西洋哲学は成立しなければならなかったという見方です。

これだけ書いてもまだ肝心の否定の形式までは話が行きませんし理解不足のため書くことができません。今日のところはここまでです。

理解が間違えている部分もあるかもしれませんのでご了承下さい。特に、realitas objectivaとrepraesentatioの関係、それらとrealitas objectivaとrealitas actualisすら不明瞭な状態で書いていますので、これを読んで本気になさらないように是非ともご注意下さい。気が付き次第、訂正版を挙げる可能性もあります。

「非ず非ず」を西洋の言い方に置換してみると? - Qu'en pensez-vous?