Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

様相とは、可能性と関わりはあるが、スクリーン化はしなさそう

モードチェンジと様相(モード、モダリティ) - Qu'en pensez-vous?

先日↑これを書いたことで、反省して仕方なく(!?)ちょっと勉強してみました。まだ途中なので、適当な印象しか書けませんが現時点では以下の通りです。

建築家の原広司さんが仰る意味での「様相」に最も近いと思われるのは、イギリス経験論のジョン・ロックの様相ではないかと今の時点では感じています。(ベルクソンとの関連についてはまた後日)

その他の哲学者の様相については、そもそも論として、その「様相」と言っているものが、果たして、「時々刻々と移り変わる空の様相」などと言う時の「様相」と同一のものを想定して議論しているのではないように現時点では感じています。

自然現象における見えがかりの移り変わりのようなものを、西洋哲学的には果たして何と呼べば適切であるのか、事物的眼前存在と呼ぶべきなのか、従来の哲学の単語の中で適切なものは思い浮かびません。
恐らく、これについても原広司さんが「マイクロデュレイション」という言葉で説明されているものがこれに当たると思われます。とするとやはりロックの雰囲気がします。
しかし、どう考えても、移り変わる見えがかり、時々刻々と表情を変える情景、という感受性そのものが非常に日本的で、西洋の人たちはそうしたことを哲学的美学的な重大事案とは捉えていない節を感じます。日本人は、桜が散れば感嘆し、やがて消えゆく花火に感傷するような人種なのではないでしょうか。日本人ははかなさに心を奪われる奇妙な感覚を備えているのではないかと思われます。

そのような消えゆくものに着目するのではなく、確固とした物への称賛が西洋的思考を貫いているものではないでしょうか。基本的に哲学の根本は古代ギリシャにあり、古代ギリシャにおいては「作られたもの」とか「制作物」という重しが根底にあり、様相というのも、被制作物という流れの先にあるものといった匂いが漂います。ハイデガーにおける「存在様態」と翻訳されているものの原典における単語が何であるかが不明なので何とも言いようがないのですが、もしも「様相」と「存在様態」とが同一のものを示しているのであるとしたなら、様相というのは、何らかの可能性や未来に関わる物あるいは言明についてのヴァリエーションには違いないのだろうけれども、それは、スクリーンに映し出されるようなものとしての見えがかりでは無いのではないのではないかという感想を現時点では持っています。哲学というのは、自然発生的なものに対する考察ではなく、全てが作られたものについての考察になっているのではないか、と考えられます。
なぜ古代ギリシャの次に軽々とハイデガーを持ってこれるかと言いますと、ハイデガーは元々はアリストテレスの研究者であるため、アリストテレスのことを知りたいならばハイデガーによる解説を読むと良くわかるという構造になっているためです。

カントのカテゴリー表の四にある様相を眺めて考えているところですが、この部分からはかなりポジティブなものを感じています。
四 様相 可能性―不可能性
     存在性―非存在性
     必然性―偶然性

この「存在性―非存在性」が問題らしく、現実性―非現実性が意味的には正しいのではないかという議論があるようですが、確かにそれだと、ハイデガーの繋辞に関する説明の所の話と辻褄が合うようのではないかと思いました。現実からしか真なるものは掘り起こされはしないということだから、この様相についても、やはりスクリーンに映し出されるような変容のことを言っているのではなくて、どう考えても、形が決まったもの、決定したもの、結論が出たもの、何か一つの物として可能性や未来についての言及を含んではいるが独立した形を取るものではないのだろうか、とイメージされます。

・・・と、これでは読んでいる人にとっては何のことかさっぱりわからないと思いますが、自分自身での覚書というか、メモというか感想です。

ロックについてはM先生に聞けばわかる。しかし約20年前に挨拶したっきり。M先生の著書を読むのが手っ取り早いかも。

本記事は、本当に適当なことばかり書き連ねてしまい、哲学的に間違っていることを書いているかもしれないため、もし決定的な誤りが見つかったら後日削除するかもしれません。

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