Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

「YET」 HIROSHI HARA から原広司さんの建築理論の普遍性について考える

建築家原広司さん関連の記事も、当ブログでは人気があります。
 
建築家の原広司さんの著書はもう何冊もブログ上で取り上げていますが、こちらの「YET」はまだ記事にしていませんでした。実際に建設に至っていない計画段階の建築がメインの作品集となっています。
 
自宅の本棚の取り出しにくい場所に押し込んであったのと、未完の建築=YETということと、この本はいつも書店に行くと置いてあったりするので(メジャーなんだろうなと思い)、すっかり油断して記事にしていませんでした。
しかしブログ休止に入る前に記事にしておこうと今回引っ張り出して来て久しぶりに見ましたが、こんなにたくさん原広司さんの文章が書いてあったんですね。図版や模型写真やスケッチばかりだったと勘違いしていました。図版しかないだろうから、すぐにレビューを書けるだろうと思っていましたが、原広司さんの文章を読み始めたら面白くなってきてしまって、読み込んでしまってなかなか記事が書けません。序章があり、各ページに短いですが空間に関する文章が書いてあり、大変面白いです。
 
でもこれ、未完の建築ですが、このように書籍化されるとそれは確固たる情報となりますから、何となく、他の建築家のプランに既に吸収され取り入れられているような建築もあるように見受けられます(特にSANAAあたりが似た感じのプランをいくつか取り入れているように見えます。偶然似たように見えるだけだったとしたらすみません)。プロの方にとって、こちらの「YET」は良い参考書と成り得ているのかもしれません。
 
その他に原広司さんの書籍で当ブログにて紹介していなかったものとしては「建築に何が可能か」と「住居集合論」ではないかと思います。「住居集合論」は専門書の部類ですが、「建築に何が可能か」は一般人でも読める類の本だと思いますが、何しろ古いので、図書館でもなかなか読めない感じの本だと思います。以前図書館でものすごく出して来てもらって「建築に何が可能か」を読んだことはあります。原広司さんが若い頃に書かれた本ということで、荒々しく刺激的な良い本でした。有孔体とか、閉じた空間に孔を穿つといった話がメインだったように思いますが、「空間<機能から様相へ>」のプロトタイプのような感じでもあったように思います。
 
やはり原広司さんの文章が良いのは、書いていることがまっとうだし、ものすごく人を鼓舞する力を持っていて、計画や構想力次第によっては理想郷や希望的世界が出現可能であるかのように思わせてくれるところがすごいなあと思います。語っていること自体にすごく夢があるというか、夢も希望もない世界ではないと思わせてくれるところがすごいです。
 
一般的に建築論とか、建築というと、マテリアル的な話にどんどんなって行きがちではないかと思いますが、「建築は、ものではなく、出来事である」(「YET」104頁)という原広司さんの有名な一節からもわかるように、原広司さんにおかれては、俯瞰しているスパンが未来に向けても過去に向けてもものすごく長いのではないかと思います。1世紀や2世紀どころか、1000年経っても2000年経っても変わることなく注がれ続ける悠久の時間のうちの、人間という身体性を常に取り巻いている様相的空間やマイクロデュレイションについての考察が重要な要素となっているため、それが普遍性につながることは理解できるのですが、一体そのことの何が、我々に夢や希望を与えることに寄与しているのかな、というのが、少し自分でも謎に思った部分です。
 
「YET」を見ながらそれは一体何なのだろうと考えました。

気になった所に付箋をつけながら読み進めましたので、一部重要そうな個所を抜き書きしてみます。
164頁 空間『空間は、ある領域の現象の総体である。空間の変容の仕方がModalityである。』
166頁 様相『建築は、□(スクエア、必然様相)と◇(ダイヤモンド、可能様相)がつめこまれた魔法の箱である。機械には□だけがつまっている。できることなら、建築には多くの◇がつまっていてほしい。』
169頁 無限流出装置   ・・・長いので省略します。内容は非ず非ず・・・
205頁 記号『記号はものを出来事あるいは現象に転化する手続きである。』
211頁 記号場      ・・・長いので省略します・・・
223頁 場面を待つ    ・・・省略します・・・
227頁 住む場所のない人々・・・省略します・・・
251頁 モデレーター   ・・・長いので省略します・・・
 
一部、「集落の教え100」の目次と重複する項目もあると思いますが、このような感じでいつもの調子で、特に目新しいことは書いてはありません。しかし思うのは、3000年前の人でも、現代に生きる人でも、あと1世紀先の未来の人でも、きっと、建築空間から得る感受性や知覚の仕方はまったく同じなのではないかと思います。例えば暑い日差しの中、木陰に入ると涼しい、あずまやに入ると涼しい、そして快適であって、直射日光が遮られ、程良い光線がきらめくのが美しいなどと思ったりするような感覚、1、2時間外の景色を見ながら過ごしているうちに空の様相が変わってきて様々な光の変化を見ることができて空の色彩が美しかった、などということは、どの時代の人間にも共通していることではないかと思います。
そのようなことを意図して論じているわけでは全くないと思うのですが、有史以前であっても何世紀過ぎようとも、どの時代であろうとも共通して人間が必要とし快適性を得られる根源的空間性について語っている、そういう部分が限りある時間を生きる我々にとって非常に癒しとなる内容と成り得ているのではないかと思われます。われわれが目にしている現象は過去からずっと続いてきて、さらにこの先もずっと続いていくだろう、そうした悠久の自然と自然の恩恵から得られる何物かに我々は希望を見出しているのではないかと思いますし、究極的には、光の変容に対する美的称賛も大きいのではないかと思います。原広司さんの様相論を読んでいると、空の光の変化の様子が頭の中で映像化されてきます。その頭の中のイメージの、自然光線の美しさだけで、人間は希望や癒しを得られるのかもしれません。
そして原広司さんの建築理論を携えて例えば過去にタイムトラベルしたとしても、その時代の素材で、原さんの建築理論に基づいた建築を作ることはできるだろうし、未来にタイムトラベルしたとしても同様のことができるのではないかと思います。時間を超越してもなお有効な理論なのではないかと私には思えます。そのくらい、人間にとって根源的な何物かについて考察されていると思います。「空間<機能から様相へ>」の中では、「人間とは」と問うとダメになるといった感じのことが書いてあったように思いますし、逆に「人間とは」と問うことを禁止し、親自然的建築とか、自然の観測装置とか、様相とか、そうしたことを追求した結果、時空を超えた人間の快適性や根源的空間性に結びついていくことは、大変不思議で大変素晴らしいことだと思いました。