「その1」の最後で何を書いていたかというと、古代ギリシャ人と現代人とでは時間の流れ込む方向と時間が未来へ向かう方向が違っているという話でした。
どこに書いてあったのか探したいのですが、今手元に本が無いので確認のしようがありません。ですが確かにそのようなことが訳書註のどこかに書いてあったと記憶しています。(探せたら探しておきます。もしそんなことが一言も見つからなかったとしたら、後から謝ります)
現代人は、目の前に未来が広がっていて、過ぎ去った時間はどんどん自分の後ろ側に流れていくという感覚だと思いますが、古代ギリシャ人はそれが逆ということになろうかと思います。頭の後ろから時間が流れてきて、過去の出来事が目の前にずらっと見えているという感じかと思われます。
一般的な現代人が良く使う言い回しに、「前向きに検討します」とか「過去は振り返らない」などという不可思議な歯が浮くようなセリフがありますが(私はこの両方の言い回しとも大嫌いです。そのような発言をする人には、ろくな人がいません)、時間の流れる方向が逆だとすると、これらの言い回しは古代ギリシャ人には通用しないものになってしまいます。
そのことと、アリストテレスの可能態、現実態とがどのような関係にあるかということですが、時間のことと可能態・現実態(こちらはエネルギーが関わる問題)はまったく違う話なので一緒にできる話ではないのですが、少なくとも時間の流れについては、プラトンの洞窟の比喩や、イデアや形相の概念が大きな影響力を持っているのではないかと思われます。人間にとっては、見えている世界というのはすべて本物の世界の影に過ぎないというプラトンの説の影響により、本当の物がどこか別の所にありそれを人間は直接見ることができない、それは背後にあるから見えないのだという考えがあるのではないかと思われます。人間に見えるのは過ぎ去った時間に関わるものだけでそれが目の前に広がっているという感覚なのかもしれないと思います。
なぜこの時間の流れが変わったのか。一体いつ変わったのか。
それを考えていて、思うに一つには、キリスト教の発生があるのではないかと思いました。他にも理由はあると思いますがが、最も説明が付きやすいのはこれではないかと思います。
紀元前においては、本当の世界というのは絶対に見えないものだった。しかし、キリスト教の誕生によって、これまで隠れていた世界(隠蔽態)が目に見えても良いことになった(非隠蔽態)。なぜなら、キリストは復活して降臨します。神様が、人間の目の前にわざわざ姿を現してくれる状況が到来した。このことによって、目の前に本当のことが見える、神様が姿を現してくれる、そんな世界観に変わったのではないかと考えることはできないでしょうか。(いい加減に書いているので、本気になさらないようにして下さい。ただのブロガーの戯言による適当な見解に過ぎませんので)
ここで、ライプニッツの可能世界と強引に結び付けますと、ライプニッツの時点では、もうすでに時間の流れる方向は現代人と同一であるように見えます。同一だと思います。ライプニッツはキリスト教の影響を強く受けていて、ライプニッツの語る世界は「予定調和的」でもあったりして、「神の恩寵」という大きな重しがあるのが特徴です。しかし現代人のパラレルワールド信仰とも通じるところがあり、非常に現代的と言えるかと思います。
現代人は、可能性は数え切れないほどたくさんあり、この世界にある自分はこの現実を選び取っている。可能性はどんどん自分に向かってやってくるのでチャンスは無限にあり、自分の行い次第で未来は如何様にも変えられる。さらには自分が選び取らなかったより良い未来も悪い未来も、パラレルワールドの自分たちがそれぞれに異なる未来をつかみ取って生きているかもしれない、などという信仰にも似た救済的考えが、現代人を支配しており、良くSF映画などのテーマにもなったりもしています。これが現代人の考える「可能」とか「可能性」とか「未来」に対する内訳だと考えられます。
ただ、やはり、こうした現代人の未来感やライプニッツのいう「可能世界」という概念は、アリストテレスの様相論理とは関わりがあるとしても、アリストテレスの言う「可能態・現実態」の「可能」が含む意味合いとは、まったくというと言い過ぎかもしれませんが、微妙に意味が異なるものではないかと思います。
アリストテレスの場合はだた単に「可能」という字面をしているだけで、実際にはエネルギーのことを言っていると思いますし、基本的には生成消滅論の文脈に属することだと思います。選択の余地のない未来のことであり、宿命的な力のことを言っており、「自然/フュシス」に関することでもあると思います。(「デュナーミス/可能態」と「エネルゲイア/現実態」の意味内容が実際には字面とは違い逆転しているということを、私の哲学の先生の説から借用させていただきました)
そんなわけで、古代の人々と近現代の人々とは時間の流れる向きが違うことによって、昔の人たちは目の前に見えていることに没頭できたと考えることができるかと思います。その分現実世界が強いエネルギーで満たされたものと見る世界観が生まれた。近現代人は、眼前に次々と流れ込む未来からの時間の虜となり、可能性の探求に夢中になり、その分未来の出来事に対してエネルギーが拡散し流出していく傾向があるように思われるのです。