Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

「非ず非ず」を西洋の言い方に置換してみると?(2)

建築家原広司さんの概念的なお話が好きだという方々に根強い人気を誇るとみられるこちらの過去記事(↓)ですが、

「非ず非ず」を西洋の言い方に置換してみると? - Qu'en pensez-vous?

また少しわかったことがありましたのでその続編を書いてみたいと思います。

「非ず非ず」を西洋の言い方に置換してみると? - Qu'en pensez-vous?

の記事中では、本質存在と事実存在という話を出しましたが、これは西洋哲学において常に対立して出て来る項目です。サルトルの言う実存主義ハイデガーは批判したと言われ、それは本質存在と事実存在との優位性を競うような議論を続けることへの指摘であり、20世紀のハイデガーメルロ=ポンティなどの現象学者は、西洋的概念の確立以前の状態へと回帰するような存在の定義を目指していました。本質存在と事実存在とに分断することなく、本質存在を最初から意味的に含んだ事実存在として、現成するといった動詞を用いて、存在がより自然/フュシスに近く、ウーシアやヒュポケイメノンそのものであるような太古の昔の野性的世界まで起源を遡ったところにある存在についての概念構築が試みられました。

「非ず非ず」が示す内容は、西洋的表現に切り替えれば実はこの現象学者たちの目指した存在の定義と重なるのではないかということを今回思い付きました。とても現象学的だと思いました。「非ず非ず」の論文が書かれた年代的にも現象学が日本に輸入され広く紹介された流行期と重なるはずで呼応関係にあるのではないでしょうか。

本質存在でもなく事実存在でもない新たな存在というのは一体何なのか。
そもそも本質存在、事実存在からわからないという場合は、わかりやすく表現するなら、次のようになります。
我々人間は身体を持ち、肉体によって生きていますが、それと同時にこの肉体を操るものがあって、この肉体を操っている霊魂があるはずだ、と考えることが西洋の考え方です。ただの物体に対して、物体を動かす何か本当の物があるはすでそれが人間の霊魂である、というこの2重構造が、事実存在と本質存在の構造に相当するものの一例として挙げられるのではないかと思います。これがすべての世界の事物を二つに分断していて、それが形而上学の根底です。プラトンイデア論が起源とされます。イデア論の例として最も言われるのは幾何学でしょうか。その他すべての事物が2つの側面を持っていると解釈され、その中の一例に過ぎませんが前述の肉体と霊魂の対立があり、二つに分かれているのが古臭くて良くない、ということで、一昔前に盛んに言われたのが「身体性」。これはメルロ=ポンティがその著書の中で身体性について盛んに述べているため有名だと思います。「身体性」についての引用は意外と多く、現象学的意味で使っているかどうかは不明ですが、隈研吾さんなどは「身体性」を良く使用されるイメージがあります。

ここで再び定家の歌。

この構造自体が新しい存在と空間を浮かび上がらせているように見えます。この「非ず非ず」の構造は弁証法とのことだそうですが。

花がある/ない
    ↑
このスラッシュの部分から生じて来るものをイメージする。 

紅葉がある/ない
     ↑
このスラッシュの部分。すごく空間が広がってます。想像できます。

これまで存在は、「あること」までで話が止まっていた。ところが、「非ず非ず」という否定の構造を持ち込むと、「あること」と「ないこと」というふうに存在がこれまでとは違う次元で語られることが可能となる。
存在はこれまで何千年もの間下層の次元に留まらされ続けていたけれど、否定の構造によって、存在の定義が一気に自由になり、高次元で動けるようになったかのようです。存在で充満した空間が広がっていきます。
(本当はもっと詳しく書きたいのだけれど、これをしっかり書き表したら哲学論文になってしまい、それをネットで公開していたら非常に良くないのでこれ以上は書きません。)

書いてしまっても特に問題なさそうなのは次の事柄。
「非ず非ず」の論文中にあるものではなくて、「空間<機能から様相へ>」中の論文「機能から様相へ」にあるアンチノミーの部分。
一部だけ抜き書きますと、このような項目です。↓
正の⇔負の
可逆の⇔不可逆の
開かれた⇔閉じた
中心の⇔周縁の
様相の尺度についてのお話と思われる中でこちらが出てきています。
↑これにそっくりなものをまったく別の関係ない本の中で見たことがあります。他の本にも載っているということは、かなり広く知られている概念で、多くの人が既に知っている事柄なのではないかと思います。

それを何で見たことがあるかというと、自己啓発系の書籍で見ました。
書いているのはアメリカ人のメンタリストで、韓国の?儒教の?わかりませんが「陰陽」について語っている部分で、すべての世の中の現象は程度が違うだけで、すべて同一の物事である、ということを言っていました。
すべて程度の違いに過ぎず、カテゴリー的には同一のものである、ということが「陰陽」では考えられているようです。(こちらはまったく西洋哲学は無関係で、東洋の陰陽思想でした、すみません。)
両極を持ち一見対立しているように見えても実は同一領域内の現象であって、強弱の問題でしかないということのようです。
これが果たして空間と結びつくかどうかと言ったらわかりません。

どちらかというと、やはり最初の「非ず非ず」の方が、空間を発生させうる強力な構造を持っているようですね。

「空間<機能から様相へ>」 - Qu'en pensez-vous?

原広司 HIROSHI HARA: WALLPAPERS - Qu'en pensez-vous?

『ディスクリート・シティ』 原広司 - Qu'en pensez-vous?

「集落の教え100」原広司 著 彰国社 - Qu'en pensez-vous?

「非ず非ず」を西洋の言い方に置換してみると? - Qu'en pensez-vous?

 HIROSHI HARA:WALLPAPERS の補論2「情景図式と記号場」後半部分を再読してみました - Qu'en pensez-vous?

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