Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

「集落の教え100」の補注 1自然 2空間 について思うこと

長年に亘りずっと建築家の原広司さんの空間概念や理論に興味を持って来ましたが、ここのところ突如として見る目が変わって、少々引き気味です。少々冷めたかもしれない。
理論面に興味があったからこそ、このようなブログも始めたわけで、空間について考えてみたいと思ったわけですが、旧ブログで書いていた時よりも今回はより真剣にやろうと、ちょっと張り切って哲学について勉強し直している最中ですが、少々理論面で疑問点など感じ始めるに至っています。というか、そもそも東大名誉教授の先生の言うことに疑問を持つなどおこがまし過ぎるので大変恐縮ではありますが。

当ブログの原広司さんの空間:理論編カテゴリでは褒めちぎって書いていますが、若者に対してはものすごく説得力があると思うし、若者はこの手のものはすごく喜ぶと思う。若い時はこういうのは心に響くものです。ですが、一歩引いて冷静な目で見てみると、少々不可思議な点はあると思う。でもそれは恐らく、建築の設計のためにコンセプトが重要であって、何か作品を作り上げるためにはコンセプトという強固なフィクションをまずは立ち上げないといけなかったがためにこのような事態が導かれているということがあるのだろうと思うのです。
クリエイティブな分野というのはこうした産みの苦しみみたいなものが非常に大きいと思われますので、どうしても作品の支えとなる何かを引っ張り出して来ないといけない。それが空間概念や空間についての理論なのではないかと思います。

一体何に、不可思議さを感じたかと言いますと、「集落の教え100」の補注 1自然 2空間 のところ。

気が付いたのは、ほんの数日前で、それ以前はまったくおかしいとも思いませんでした。ずっと長い時間平然と読んでいて、少しも気が付きませんでした。

私が思うに、アリストテレス的解釈で行きますと、存在一般というのはそもそも空間的に出現するので、存在というのは元々空間的なものである。ここまでは確かに似たことが、2空間のところに既に書いてあります。
で、その先が問題で、アリストテレスなどの古代ギリシャ世界ではおそらく、存在は空間を占有して現れるので、あらゆる存在でぎゅうぎゅう詰めになっている状態がこの世界であるというイメージではないかと思います。空気があって透明で奥行きがあるこの一見空っぽに見えるこの空気が占めている空間、これもまた一つの存在と捉えるべきものであって、とにかくすべてが存在で満たされていてぎゅう詰めの過密状態なのがこの世界、という見方ではないかと思います。
そしてさらに、この存在でぎゅう詰めの世界というのはそっくりそのまま自然の全体像であるということです。つまり、どういうことかというと、自然と空間とは、アリストテレス的に述べた場合イコールということになるのではないか、ということです。

われわれは、現代人の視点、つまりデカルトの延長空間の枠組みで物事を考えることが身についてしまっているため、どうしても空間を、透視図法的なものとしてイメージしたり、あるいは水槽のような容器の中に存在が点在しているような容器的イメージで空間を捉えたりするのが定番となっており、よもや自然と空間が同一のものであるとは思いもしません。

現代人の常識で自然と空間について説明しようとするとどうしても「集落の教え100」の補注 1自然 2空間 に書いてある通りになると思います。別にこれで正しいと言えばもちろん正しいと思いますし現代人風の常識的解釈に違いないと思います。
ですが、元々、アリストテレスハイデガー、モーリス・メルロ=ポンティというのは同じ流れにあり、エネルギーに溢れた世界の復権や、(プラトンのように)別世界に真実を求めるのでなくこの現実世界の中に真実を求めるという意味で、同じものを目指そうとしている哲学者たちでもあります(ただハイデガープラトンイデアやエイドスを否定しているわけではありません)。
よって、アリストテレス的に話を進めたいのなら、存在で充満している自然=空間(非均質空間)となり、デカルトで行くなら延長=空間(均質空間)となると思います。

・・・と書くと、「集落の教え100」の補注 1自然 2空間 には一言もデカルトの延長のことなんか書いてないじゃないかと言われるかと思います。
でも私には、デカルト的視点に拠って、均質空間的視座に依拠して 1自然 2空間 が書かれているように読めます。1自然 2空間 と分けて書いているところからしてデカルト的に見えます。この視座自体を変える必要があり、視座が新たなロゴスへと転位することによって、空間や空間概念の開示に結びつきはしないかと考えます。
この視座とはロゴスのことであって、ロゴスとは何かと言えば、フュシスから分離可能なもの、それがロゴスです。
ロゴスというのは、いくらでも構想可能なものかと思われます。つまり、「集落の教え100」の補注 2空間 に、空間は便宜的に解釈されるものとありますが、それは確かに正解であると思われます。

この視座更新への挑戦はフランス人哲学者モーリス・メルロ=ポンティによって一度は試みられましたが、その早すぎる逝去によってその全貌が明かされる前に潰えました。

状況はかなり深刻そうです。我々の目は、もう透視図法で世界を見ることに慣れ切っていますし、特に建築やデザイン、芸術方面その他の仕事をしている方々などは、均質空間をベースにデッサンしたり座標軸に基づいて形態を考えなかったら、被制作物一般について一体何をベースに考えればいいのか、ということになると思います。
別にデカルトが悪人だと言っているわけではありませんが、均質空間は好ましくないなどの流れがあるのなら、そもそも論としてデカルト的視座以外の枠組によって議論を構築すべきではないのだろうか。

もうすでに我々は存在であるがゆえにフュシス/自然そのものとしてあり空間的な現前性としてあるので、どうしてもロゴスを介した所から状況を分析するしかありません。(→それが本当に記号場だとするなら話は解決すると思います)
もう現代人に染みついてしまっているものを今更変えることが果たしてできるのかどうか。
でも、それができないと、新規の空間概念や次に来る哲学の成立はどんどん遠のいて行くばかりです。

(本記事中に理解上の決定的誤りが見つかりましたら、後日別記事にて訂正及び解説致します)

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