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Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

可能態、現実態、の取り扱いについて その1

様相についての哲学的に正確な説明については、不勉強過ぎるので今回は保留にしたいと思いますが、何となく思うに「様相」という翻訳自体に誤りがあるのではないかという感じがあります。様相は必然、偶然、可能、不可能などありますが、これは様態と言った方が合っているようですし、現象と言ってしまっても良さそうな気もしますが、それはもっと様相ついて良く書いてあるものを読めばよくわかると思いますし、これについて既に回答を出している哲学者がたぶんいるのではないかと思います。たぶんハイデガーあたり。ただどのテキストにそれが書いてあるかわからないので、おそらく書庫などから引っ張り出して来てもらわなければならない専門家しか参照しないような本に書いてあるのではないかと思われます。ただ、いろいろ読んでみて、やはり様相で正しかった!ということも十分あり得ます。とりあえず入手しやすい所からということで、お世話になった私の哲学の先生が様相について解説しているものを今度読んでみます。今持っているその先生のとある本に平然と解説も無しで堂々と「様相」と書いてありましたので、やはり様相で正しいのかもしれません。

誤った翻訳は哲学系では頻発しますので日本語訳は間違えていることを前提で考えた方が良いですし、概念上の誤認を避けるために大抵、哲学の先生方は原書で哲学書を読みます。有名な誤訳はカントの「先験的」という翻訳ですが、先験的に代わり「超越論的」の方が正しいとされているものの、それを聞いた時点ですでに私などは「先験的」で慣れ切ってしまっていて馴染むことができず、「超越論的」をかえって不自然に感じてしまうという現実があります。「超越論的」なら他のものへの応用が利くらしいですが、先験的の方が感覚的には良く言い当てていると私は思いますし、そうであるならば、「超越論的」に変わるさらに適切な訳語を作っても良さそうに思います。哲学の言葉でなく、美術分野の、アヴァンギャルド=前衛と翻訳されていますが、これも非常におかしい翻訳で(ただの直訳)、もっと内容を言い当てた良い翻訳があっても良さそうに思うのですが、もうすっかり前衛でまかり通っています。そんな感じで、西洋の概念を日本語に翻訳するというのは、奇妙な造語が作り出されるという事態を招きます。

そこで一体何を言おうとしていたかと言いますと、当ブログは建築について書いていたり、建築家の原広司さんの空間理論について考えたりしていますので、そこで、原広司さんの仰る様相のお話に、急に可能態やら現実態やらといろいろ出てきますので、そのあたりについて書こうと思っていました。

可能態、現実態というのは、アリストテレスが言ったことですが、たぶんご存じの方も大勢いらっしゃるとは思うのですが、可能態と現実態では、現実態の方が大事です。というか現実態の方が辿り着く先のものです。順序としては「デュナーミス/可能態」→「エネルゲイア/現実態」(→「エンテレケイア/完成態」)となります。(「エンテレケイア/完成態」をカッコとしたのは、エンテレケイアはエネルゲイアとほぼ同義という説があり、不明瞭なためカッコ入りとしました)
良くある誤解では現実態→可能態という構図があるように思います。原広司さんのお話でも、ただの「可能性」と書くべきところが「可能態」と書かれていたり、未来の出来事を指して「可能態」と言われている節もあるようで、そのあたり少々曖昧になっているところかと思われます。

なぜ可能態→現実態となるかについてはアリストテレスの「形而上学」か、「自然学」の「生成消滅論」に書いてあったのではないかと思います。
アリストテレスの可能態というのは、例えば種子のようなものであり、種子の中には将来植物となるであろう物の素が詰まっていて、それが実際に力を発揮し現実態、というふうな感じで、可能態とは内に秘めた力とか未発現の力のことを指していて、「フュシス/自然」に関わりのあるものなのではないかと思います。(適当に書いてますので、本気にする人は必ず書籍などで確認してください)ただこれもクセモノで、ここで「エイドス/形相」や「ヒューレー/質料」を持ち出して来て強引に説明しようと思えばできてしまいそうなところが困ったところ。

私は、ちょっと邪道な理解かもしれませんが、それが忘れてしまったのですが、岩波の青の訳者脚注、「形而上学」か「詩学」、はたまたプラトンの「パイドロス」だったかもしれませんが、とにかく岩波文庫の青の哲学系の書籍中で、翻訳者が細かい字で本文の解説を行っているところ(絶対に誰もこんなところ読まない、という場所です)に、こんなくだりがありました。

古代ギリシャ人は、現代人と時間の流れてくる方向が違う、ということが書いてあり、一体それはどういうことかというと、現代人はわれわれの目の前に未来が広がっているという考え方をしますが、古代ギリシャ人は、頭の後ろ側から時間が流れてくると考えていた、と訳者の解説がありました。頭の後ろ側から時間が流れてくるので未来は背後からやってきて、目の前に見えるのは過去の事象や記憶が目の前に見えている、という考え方を古代ギリシャ人はしていた、ということらしいです。
たぶん、この考え方で行けば、可能態、現実態、完成態の理解もよりしやすくなるのではないかと私は思っています。
古代ギリシャ人は、どういうわけか現代人と時間の流れる方向が違うようですので、古代ギリシャ人の立場になってみるといろいろわかります。

時間が無くなってきたのでまた後日続編書きます。可能態と現実態についてだけ書こうと思ったのに、話がこんな大ごとに。もっと簡単に済むかと思ったのですが。

可能態、現実態、の取り扱いについて その2 - Qu'en pensez-vous?

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「集落の教え100」原広司 著 彰国社 - Qu'en pensez-vous?

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