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Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

「非ず非ず」を西洋の言い方に置換してみると?

「空間<機能から様相へ>」の中にある『<非ず非ず>と日本の空間的伝統』という小論に「非ず非ず」について書かれてあります。

原広司さんが仰る「非ず非ず」について、これを西洋の言い方で置換してみると何になるのだろうという疑問が生じ考えてみていました。
なぜ置換する必要があるかというと、こうした「非ず非ず」のような小論でも何でも、世界中の人たちが理解できるようになるためにはある程度西洋哲学のスキームの中に落とし込む必要があると思ったからです。
「非ず非ず」の論文はとても魅力的ですが、たぶん、哲学が専門の先生が読んだら怒るのではないかと思われる。滅茶苦茶だとか、哲学を愚弄しているなどと言う可能性すらある。専門家に理解してもらうには、どうしても西洋の言い方をしなければならない。そういう関門がある。というのは西洋哲学の先生というのは、頭の中身は西洋人なのだから「非ず非ず」と言っても通じない(ただ、ΓA=A/notA なら明快ですべてを表現しているけれど、突如としてこれを言い出しても解説が無いと通じない)。仮に、この内容を、どうしても哲学の先生に話をすることがあるとしたら、私は哲学の先生にどのように説明するだろうか(怒られないように!)、というのが本日のテーマです。

哲学系も学閥があって、あちらではBを重視するけど別の所ではぜんぜんBのことなどどうでもいいという傾向はあると思います。
本質存在と事実存在について、重要視しない学閥もあると思いますし、そんなの聞いたことすら無いという人もいるかもしれません。
ただ、西洋の考え方としては、not、notと否定だけがクローズアップされていることが非常に奇妙ではないかということが言えるかと思います。
西洋の文体で重要視されるのは、やはり動詞ではないでしょうか。何々である、何々がある、というこの「である、がある」の部分、動詞が一番重要だと思うのです。否定のnotは、肯定文の付随物でしかありません。notに気を取られていると、この「非ず非ず」が何であるかということにすら行き着けなくなる恐れがあります。(ただ、notは事象を動かす力であって、not、notの場合に力を発揮する、つまり元に戻る、本来あるべき場所を指し示すということでアリストテレスのトポスまで出てきて、原広司さんのお話は飛躍が激しくもう大変なことに・・・)ひとまず否定文の原型である肯定文の方にまずは着目したいと思います。

ここですべて肯定文として考えてみますと、非ず非ずを肯定文にしたものはすべて事実存在ではないだろうか、ということがわかると思います。
本質存在ではなく、事実存在だと思います。
本質存在とは、動詞に「である」を用いるもの、事実存在とは動詞に「がある」を用いるものとされています。
「AはXである」と言う場合は本質存在、つまりAが何であるかというAの本質についての説明を行った内容がXに表される。
「Aがある」という場合は事実存在、つまりAが在るのであって、Aが存在する、Aがただそこに在るという意味となるので事実存在となる。
例に挙げられている定家の「花も紅葉もなかりけり」というのは、花がない、紅葉も無い、のだけれど、それは「花がある」「紅葉がある」の否定形なので、事実存在であるということになる。

とすると、「非ず非ず」という否定によって並列的に水平的に広がるモデルというのは、事実存在の一覧の肯定形バージョンが否定形バージョンと共に群、集合を成したものではないかということになると思いますし(ここでようやくΓA=A/notAと言える)、事実存在の一覧、というのは、何も本質を伴わない世界ということになるとも思います。ただ花がそこにある、ただ紅葉がそこにある、ということなので、存在がただそこに在るのです。何ら本質を伴わず、存在としてそこに在るのです。そして非ず非ずなので、それの否定だと言っている。
つまり、表面的な様相であり、その存在が何であるのかを問うものではなく、豊富な物の展開とその表層を追うだけの世界、そしてそれが否定されることによって起こる鏡像的な世界、それら群を成した空間世界の現れを示唆しているのかなあと、ここまでしか今のところ考えられません。でも少なくとも、原広司さんが仰る様相というのは、すべて表象の世界であるとも言えるのではないかと思うのですがどうなのでしょうか。そうだとすると非常に納得が行きますし、記号論との関連も非常にスムーズです。つまりすべてに意味が無いんです。意味は無いけれども、表象表現は無限にある、そういうことを言っているんじゃないかと思うんですが、間違えているかもしれません。わからない。
でも、確実に「事実存在」を持ち出せば、西洋哲学の人達に少なくとも話は聞き入れてもらえるのではないかと思います。

ただ、定家の歌については事実存在で説明できても、どうしても次のものが上手く行かない。
『<非ず非ず>と日本の空間的伝統』の最後にある詩。これが大変厄介。しかも主語も明確でなく、Itとしか書いていない。神か神秘世界について語ろうとしているのでしょうけれど。こちらは「である述語」の本質存在となっているようです。例えば、永遠でもなく時間でもない、というのは、それは永遠である、それは時間である、の否定なので、それは~~である。というItの本質を語るものの否定となっています。これは本当に嫌な感じで、まるで後出しじゃんけん並の気持ち悪さ。
確かに詩的にはこのような言い方はするし、日常的にもこういう言い方をすることは多々あるにはありますけれども。でも事実存在だけではなく、本質存在についても非ず非ずが適用可能ということなら、本当に気持ちが悪い。
要するに、直観的には「彼岸的世界の『ほのめかし』」ということになるのでしょうけれど、境界を設けて境界からひっくり返した先の世界などと説明しなければならないとすると、本当に厄介でたまりません。

とまあこんな感じで考えてみましたが、根本的に間違えているかもしれませんので本気になさらないようにお願いします。

(追記;論理学の真偽表で考えると上手く行くのかもしれません。真偽表の3D版でしょうか。一から出直してまた考え直します。

アクセス解析を見る限り、「空間<機能から様相へ>」をかみ砕いて解説してくれるサイトを探しているとみられる読者様方が少なからずいらっしゃるようですので、上記の文章は理解する上でのヒントと成り得るかもしれませんので、間違いがあったとしても残しておきますね。)

少々理解が進んだ「様相」 - Qu'en pensez-vous?

「空間<機能から様相へ>」 - Qu'en pensez-vous?

『ディスクリート・シティ』 原広司 - Qu'en pensez-vous?

原広司 HIROSHI HARA: WALLPAPERS - Qu'en pensez-vous? 

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