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マザー・テレサ、聖人認定へ

幸福論 時事問題

12月18~20日くらいに各種メディアにのぼった情報ですが、マザー・テレサが、来年バチカンから聖人認定される見込みであるというニュースがありました。
聖人と認定されるには、死後2回奇跡を起こしたということが証明される必要があるのだそうです。2回目の奇跡は既に認められているそうです。

マザー・テレサと言えば、慈善活動にその生涯を捧げた人。最も貧しい人たちに手を差し伸べた人。路上で死に倒れる人で溢れるスラムで、病人を救い出し看護し、決して見捨てることなく人間として扱い、屋根のある場所で死を迎えられるように、手を尽くした人。ハンセン病の人たちへも手を差し伸べ、家族と暮らせる村を作った。シスターの仲間とともに、慈善活動の輪を広げ生涯に渡り努力をした人。
概略しか知りませんが、なかなかこのようなことは常人にはできないことだと思います。
それにたった一人ではこのようなことはできなかったはず。住む場所を与えてくれた人、食べものを分けてくれた人がいたおかげで、そのような活動ができたはずですから、協力してくれた人たちすべての功績と言えるのだろうと思います。

79年にノーベル平和賞、97年に亡くなり、2003年に「福者」になっているということで、その13年後にもう「聖人」になるというのはかなりのスピードですが、こうして聖人が誕生するプロセスを目の当たりにできるのは、興味深いことだと感じています。

最近、私は、「他人に分け与えることができない人は、不幸だ」とひしひしと思うようになりました。
逆に、なぜか「他人に分け与えることができた時、幸福感を感じる」と思うようになりました。

こう思うようになったのには、あるきっかけがあったのですが、ここでは具体的には書きません。
しかし、「他人に分け与える、他人に優しくする、しかし見返りは求めない」というのは、すごく自分の精神状態にとって良い影響があることに気が付きました。
これは決して優越感などではありません。
ほんの小さな出来事だったのですが、本当に、必要に迫られてそうするしかなかったというのもあります。
しかし無視することもできました。無視して、その人を見捨てることだってできたのです。あるいは、他の人たちに相談して、他の人たちに問題を受け渡すことだってできたのです。しかし、私は無視せずに、他の人に問題をたらい回しにもせずに、自分が背負って問題に向き合うべきだと思い、然るべき行動を起こしました。そして、他人に見返りを求めず優しくすることで、逆に自分にとっての幸福感が得られました。
誰かのためになっているということが、自分の自尊心の一部を成すような感覚です。自分も捨てたもんじゃない、自分にも価値があるようだ、と思えます。
そういう意味では、普通の仕事でも人のためになる仕事はたくさんあります。私の以前の職場は、直接的に人のためになる職種でしたが、充実感よりも、パワーハラスメントなどのストレスが大きすぎてたまったものではありませんでした。それにお金との対価でしか他人に与えないので、本当にただの仕事でした。しかし今回の出来事は、仕事と違って、給料がもらえるわけではありません。まったくのボランティア活動のようなものです。でも意義を感じます。それはやはり、自らやる気になったという部分が大きく、自発性が幸福感に関与していそうです。お金のためにやっていることじゃない、という点も大きそうです。
思いもよらないことでしたが、今後も、同様のことがあったら、積極的に関与して、他人に分け与えるべきだと思いました。

そんなことを思っていた時に、ちょうどこのマザー・テレサの聖人認定のニュースが目に入りました。
私が今行っている人助けなど本当に微々たることだけれども、世の中には、こんなに大規模な慈善活動を行い生涯を通して活動し続けた人がいたのだということに驚かされました。
さらに、もう一つ思い出したことは、パワーハラスメントが横行していた私の前の職場には、何と、マザー・テレサの大きな顔写真が壁に飾ってあったということです。何ということでしょうか。一体何の真似でしょうか。少々複雑な心境です。マザー・テレサの顔をいつも見ていたせいで、私は洗脳されてしまったんでしょうか。
これ、マザー・テレサが死後に起こした奇跡にカウントされますか!?私が洗脳されたこと。

基本的に私は怒りっぽい人間で、いつも怒りを振りかざしていることが多く、他人からは恐がられていることが断然多いのですが、優しい心を忘れそうになったらマザー・テレサのことを思い出して、そのような寛大さを目指して生きて行こうかな、と思い始めている今日この頃です。

 

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