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Qu'en pensez-vous?

空間について考えます

記号場とは何か?

「記号場Semiotic Field」という不思議な造語を、最初に目にしたのは、建築家・原広司さんの「空間<機能から様相へ>」においてです。
記号学記号論、という分野がありますが、それと同様に空間においても記号論に相当するものがあるのではないかという仮定から「記号場」という概念が提起されてからかれこれ云十年?、現在「WALLPAPERS」中に記号場の具体例が少しずつ明らかにされています。

しかし、記号場よりも前に、そもそも記号論というものが何なのか、というところからですが、ソシュールによって提唱された言語学分野の記号学と、論理学者パースによる記号論の、2系統の発生をみたものの、「記号論」として一括りにしてしまって良いとのことです。

困ったことに、私はソシュールは猛烈に眠くなり、パースを読んでいると、だんだんと怒りが湧いて来て本を床に投げ捨てるくらいなので、私はあまり記号論は向いていないかもしれません。パースは眠くなりはしませんが、猛烈に、頭に来ます。何なんですかこの人は。どうなっているんでしょうか。主たる主張はわかったけれども、全体的に議論の展開が下手過ぎはしませんかね。話が下手というか、この人は一体何が目的なんでしょうか。

とは言え記号論は、現代的な分野であると言えると思います。流行りというか、知っていた方が良い分野と言えるかもしれません。

しかしこれが哲学なのかと言ったら、そうではないと思います。哲学におけるような根本問題を取り扱っているわけではありません。記号論のようなものを哲学の主流や後継にすべきでないのではないでしょうか。やはり哲学は、存在についての学問であり続けるべきで、記号論に乗っ取られるべきでないと思います。
ですので根本問題を重視すべきであるという信念から言えば、やはり概念構築の方に優位性があるはずです。

そもそも、哲学とは何を問題にしてきたかと言えば、時代によってかなりの変遷があると思います。古代では、自然学や数学であったり、イデア論であったりした。近代では人間の精神が主な対象だったはずです。フロイト的な意味での精神ではなく、人間の霊性といった意味での精神でもなく、「悟性」とか「理性」などという言葉で表される類の人間の精神について論じられることが大部分を占めていたはずです。その次に、身体性から存在を記述する試みとして現象学が来て、脱構築などの現代哲学に至っているという流れになろうかと思います。
しかし、全体を俯瞰して見てみて、一体哲学が何を問題にしているかと言えば、やはり人間を中心とした存在一般に関心が向かっていると言って良いだろうと思います。そして、存在とは、人間の精神活動の内側で生起してくるものでもあっただろうし、身体性を伴ったところにも生起するものだと思うのです。

ここで、原広司さんの空間概念論の革新的なところは、旧来の哲学とは異なり、人間を問題にせずに人間よりも外側の空間への関心に集中している点にあると思います。そして思索に際して「精神」や「身体」を必要としていません。人間でもなく、人間を取り巻く宇宙空間でもなく、人間の行動が及ぶ範囲の空間、人間にとっての近傍空間内で起こる現象と、現象の移り変わりや様相、人間によって引き起こされる出来事が作り出す空間と空間の意味性や虚構性を対象として哲学を行っていることろが、哲学史上これまで存在しなかった領域に踏み込んでいるという印象があります。

例えて言うなら、地動説と天動説ほどに異なるかもしれません。つまり、人間は観測者であり、精神や身体の活動は度外視され、人間はただ佇んでおり世界風景を眺めている。そこから議論が始まっているというアプローチであろうかと思います。

哲学史上ただ一人、明確に、空間について言及した哲学者・数学者にルネ・デカルトがいます。デカルトは空間を延長だと言いました。人間を問題としていません。数学的世界です。一見、外的な世界を記述しているように見えるけれども、実はこれも、思索の過程において、やはり、精神内現象から生まれた産物であると言ってよいのではないかと思うのです。人間の悟性を端的に整理できる記述ではないでしょうか。

精神に拠らず、人間の精神や理性への関心でなく、人間の外側にある空間を問題として言及した哲学者がどのくらいるか、ということになります。比較的、現象学の哲学者などは外界に意識が向いています。しかし、それでも、モーリス・メルロ=ポンティなどでも、弱いです。空間自体の肌理などに言及していたり、虚構空間に対する思索もあるにはあるものの、こちらは最終的に、議論が身体性へと帰着しています。

「精神」や「身体」へと帰着しない哲学、これが原広司さんの空間概念論の特徴と言えるかもしれません。もっとも、原広司さんは建築家であって哲学者ではないのだから、さらに数学を崇敬しているのだから、「精神」などという古めかしい遺物や、生々しい「身体性」を持ち出してくるはずもないのだろうけれども、何か、異質な、新たなるものを感じます。

「様相」という概念ですが、こちらも記号論にも登場する概念でもあるようです。しかし、哲学的な意味での様相は、アリストテレスの時代から、また別にあるはずです。その点で、原広司さんの建築や空間概念は、記号論で説明できるものなのか?という話になっていってしまいそうですが、できればそう思いたくはありません。そんな軽々しい、軽微な議論であるはずがありません。
記号論からヒントを得られるとしたら、おそらくそれは「分離する」ということなのだろうと思います。言葉によって、「分離」を行うことで、新しい概念が形作られる。「非ず非ず」というお話もありますが、記号論では済まない、何かもっと重要な物事を示唆しているように思えるのです。

結局、記号場とは何か、ぜんぜん書いていませんが、こうしたテーマは書いていて面白いと思ったので、今後またこんなテーマで書いてみたいと思います(というか旧ブログでも書いてましたがぜんぜんマシな議論ができませんでした)。本日はここまで。

「住居に都市を埋蔵する」 原広司 著 - Qu'en pensez-vous?

「空間<機能から様相へ>」 - Qu'en pensez-vous?

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